デザインとアートの良い関係
余白が生み出すクリエイティブ。

〜thincな人・Arts Shikoku 石原さん × 徳島県〜

徳島大学でアントレプレナーシップ教育を行う石原 佑(いしはら ゆう)さん。幼少期には難病にかかり、外の世界には触れることも少なく絵を描きまくっていたそうです。大学卒業後は東京のデザイン会社で働いた後に西海岸へ渡り、フリーランスとして活動。そして今、彼は徳島に世界中のアーティストたちを集わせ、地域とアーティストによる新たな産業を創り出そうとしている。そんな石原さんに日本・海外からみたデザインの今と、デザインにとって大切なアートの文脈について伺ってみました。


NASAへのムーブメントがデザインの道へのきっかけに!?

幼少期は水木しげるの妖怪画、学生時代はスターウォーズに影響を受けた石原さん。大学恩師の教えから「デザインとは?」と深慮するなか、出会ったグラフィックデザインはまさに彼の人生を大きく変えるデザインでした。

Q.東京のデザイン会社から海外へ、そして帰国は徳島に。なぜ徳島へ?

学生時代からデザインの仕事を受けていて、卒業後も小さなデザイン会社に入って、その2年間とか3年間とかはもうずっと普通に制作の仕事していました。いわゆるパンフレットをデザインしたり、ロゴを作ったりとか、クライアントワークを沢山と。

そこからすぐに独立するのではなく、北米で1年間雑誌やwebの制作や日本からの仕事を受けるなどして活動していた時期がありました。そもそもその前の職場は外国人が多かったので、英語を喋れないのは僕だけだったということもあり、英語の環境に身を置きたいというふうに思って、アメリカ西海岸に行きました。西海岸ではフリーランスとして1年間くらいデザイナーをしていましたね。現地のフリーペーパーの仕事などをしたり、ウェブデザインもしていました。実は結構仕事があるんですよ。

フリーランスのデザインスキルのある人におすすめしていいのかわからないんですけど、コミュニケーション能力があれば、割りと向こうの現地にいる日本人から仕事をもらうことは難しくないかもしれません。ただ、僕は日本でも外国の方と一緒に仕事する機会が多かったので、そういうところもあって、西海岸でデザイン含めいろんな文化を学びたい思いがありました。

それから地元徳島に戻ったのですが、なぜ東京ではなく徳島かというと、単純な距離の話です。西海岸って結構移動の感覚がすごいんですよ。彼らは3時間くらいの距離なら平気で通勤したりするので。そんな環境で仕事をしていたので、日本に戻るにしても東京である必要はないなと思い、生まれ故郷の徳島に戻ったんです。徳島が遠いとは思わなくなりました。8,000km離れた西海岸の仕事も引き続きやってます(笑)。

Q.デザイナーという職業ではなく「デザイン」を仕事にしようと思ったきっかけは?

大学時代、恩師として立っていた先生がいまして、その先生の教えが結構色濃くあります。いわゆる制作を中心にするグラフィックデザイナーなどではなく、デザインを通じて、大きな課題に挑むという方でした。何をデザインするかではなく、デザインで何をするかというマインドです。

「デザイン」は語源をたどると「設計」という意味になりますが、何か目的のために機略を巡らせて、辻褄の合うものを考えるみたいなところですね。その過程でグラフィックのデザインが必要だったりとか、プロダクトのデザインが必要だったりとか、そういった全体的な設計みたいなものを考えるデザイナーになりたかったなっていうのがあるのと、学生時代にこれが究極のデザインだと思えたものに『ホール・アース・カタログ』というフリーペーパーがあります。

─ 「ホール・アース・カタログ」ですか? ジョブズの?


僕の中で『ホール・アース・カタログ』のグラフィックデザインこそがデザインだ、というのがしっくりきまして、どういうデザインかというと、ヒッピーたちが読む、普通のフリーペーパー。そこには様々なものが書いてるんですよね。世の中の情報だったりとか、グラフィックデザインのやり方とか、コンピューターのこととか。その表紙が地球なんです、地球。とても良いデザインで、なんで地球かというと、『宇宙船地球号』という、60年代のアメリカの本があるのですけど、その著者であるバックミンスター・フラーに僕はたくさんの影響を受けたんですよ。

現代のレオナルド・ダ・ビンチとも言われる、デザイナー、詩人、アーティスト、建築家でもあるバックミンスター・フラー。彼が「宇宙船地球号」という言葉を使い出した時、多くの人はまだ宇宙から地球を見たことはありませんでした。地球が丸いことも当時はあまり知られておらず、そんな時代に、地球をひとつの丸として捉え、ここひとつの宇宙船であり、資源も有限であるということを唱えたフラーの想像力は、とてもすごいと思います。

彼の思想に影響を受けた人たちが、「ホール・アース・カタログ」を制作しました。当時の編集長がNASAに対して運動を起こし、地球の写真を手に入れ、それを表紙に使用するという素晴らしいデザインを実現しました。そのプロセスも素晴らしいですが、当時地球の写真そのものが新鮮だったため、それを表紙として使用したビジュアルのインパクトは計り知れないものだったと思います。。自分でもそういったデザインを実現したいと思いました。そして、西海岸でフリーランスデザイナーとして活躍することを決めたのも、この思想に少なからず影響を受けたからだと思います。

ホールアースカタログ(Whole Earth Catalog)※Wikipediaより
1968年に、スチュアート・ブランドによって創刊された。ヒッピー・コミューンを支えるための情報や商品が掲載されていた。創刊号の表紙を飾ったのは、1966年にブランドが起こした運動が功を奏してNASAから発表された、宇宙に浮かぶ地球の写真である。『宝島』『遊』『POPEYE』など日本の主要なサブカルチャー雑誌にも大きな影響を与えたとされる。
1974年に、『Stay hungry. Stay foolish.(ずっと無謀で)』という言葉を裏表紙に飾って廃刊した。このもとはバックミンスター・フラーの言葉を、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式の式辞で、卒業生に贈る言葉として紹介した。




Q.徳島に戻られて大学特任助教となった経緯は?

戻ってからは、ありがたいことに多くの仕事をいただけていたこともあり、会社にしなきゃなということで会社を設立しました。また、徳島に帰ってきたのと同時に、徳島大学でスタートアップスタジオという起業家育成プログラムができるタイミングだったんです。偶然徳島に帰ってきたばっかりでしたが、担当されている先生と偶然にも知り合いになりました。その方が医学博士というアカデミアの方にも関わらず、プロジェクトにおける人間中心の考え方や、デザイン的な考えに関しても精通している方で、デザイナーがいないからちょっと手伝ってくれとお声掛けをいただきました。そこでは起業家育成がテーマなので、起業主体となる学生からの相談をいろいろと受けていました。元々超現場重視のデザイナーではなくアカデミックな場所へのリスペクトもあったので。

例えば起業の実習などで、学生が自分たちで模擬的に起業してものづくりをするっていう時には、やっぱりデザインとかマーケティングとかで技術的な支援が必要だったので、そういうことを手伝ってましたね。学生が起業するってなったらロゴを作るのと一緒に手伝って、ECサイトで売りたいっていう学生がいたら、それの指南をしてあげたりと。

昨年からはアントレプレナー教育分野というところで本格的に授業もやっています。コチラを本業をした理由としてはやはり、デザイナーのあり方を変えていきたいと。日本がソフトウェアやプラットフォームの世界で遅れをとっているのは優れたデザイナーがハードウェア時代の成功体験から抜け出せなかったのも原因の一つだと認識してます。欧米チックなんですけど、日本のデザイン会社って基本的に制作のイメージが強いじゃないですか。そのアルチザン的なビジネスモデルは数十年ほぼ変わってません。驚くことに有名美大のデザイン教育も同じく旧来のデザイナー育成機関となっています。欧米の会社ではデザインがかなり重要な方針を担っていて、社内にデザイナーを抱えているケースが多いんですよね。なので基本的にデザイン会社というと外部のコンサル的な役割。デザイン会社が企業に出資して、その企業を一緒に大きくさせる文脈があるんです。デザイン会社が出資して、一緒にスタートアップで大きくなって、エグジットって言うんですけど、売却か上場とかさせてリターンを得る。そういったデザイン会社やクリエイティブカンパニーも多くてですね。世界中のベンチャーキャピタルがデザイン会社を買収する事例も増えています。

デザイン会社を経営していたら共感できない仕事もしっかりやらなくてはいけない、当たり前のように。でも、理念とか価値観とかに共感した会社で一緒に仕事がしたい、そこに半分身を投じてやりたい、と思うのがごくごく普通だと思いますが、そのビジネスモデルってあんまり地方では成り立たない。特に日本では成り立たないので、やっぱり起業家がたくさん生まれるところで一緒に産業を作りたかったっていう、思いが制作会社2年、3年やって芽生えたんです。古典的なデザイナーではなく、新たなデザインの価値を創造できる場所は大学にあり、その中でもアントレプレナーシップ教育の現場だと思っています。

今も自分の制作会社はあるんですけど、そこは別のフリーランスのデザイナーを役員に迎え入れ回してもらってます、本業は今は徳島大学でのアントレプレナー教育です。世界に飛び立てるような起業家を育てたり、大学で研究されているディープテックを活用して起業してもらう機会を作っていきたいですね。徳島大学にも新しい光の技術などが有名になっています。でも何でもいいですけど、そういった技術があって、それを社会実装していきたいです。例えば、とある技術があったらその技術を医療機器に応用できないかと発想し、あらゆる規制をクリアし、その見た目や使いやすさを人間社会に自然と馴染みやすいようデザインをして、それを社会に浸透させるまで一連の流れをデザインしていく。デザインを通して、新たな産業を作り出したい。そういうビジョンが、徳島に戻って来てからハッキリと描けました。

アントレプレナー(起業家)※Wikipediaより
起業家(きぎょうか)とは、自ら事業を興す(起業)者を言う。「創業者」(そうぎょうしゃ)とも言う場合もある。通常、ベンチャー企業を開業する者を指す場合が多い。アントレプレナー(英: entrepreneur)とも言う。ヨーゼフ・シュンペーターはその経済理論において経済革新に繋がるイノベーションの担い手として重視したもの。イノベーションを起こす人の意味からイノベーターとも言う。起業家精神は、アイデアをお金に変える 1 つの方法として挙げられている。




いいデザインをつきつめ、
地元にアーティストを募る。

手はデザインで、両足がアントレプレーナーシップ教育で立っていて、頭の中はアート、と自らを語る石原さん。そんな彼は今、徳島にアーティストを集めようとしている。アートは何を生み出し、どんな役割を担うものか、伺ってみました。

Q.デザイナーながら、なぜ徳島にアーティストを集めることに?

単純に徳島にはアーティストが少ないなというふうに感じていました。僕自身はやっぱりアートにすごい重きを置いているんですよね。僕が自身が、さっきバックミンスターフラーの話をしましたけど、哲学家で建築家でデザイナーでみたいな、スペシャリストではなくジェネラリスト、そういう人材になりたいなというふうに思っています。でも世の中でだいぶ細分化されているので、専門性が必要なんですよ、そして細分化の歴史って産業革命の歴史なんですよ。

いかに社会を効率的に回すかというのが、こういうサイロ型の細分化された組織、効率的で生産的な組織。でも横の繋がりが少ない分、イノベーティブじゃないというのがあります。産業革命が19世紀ですけど、、当時多くの工業製品がたくさん作られる中、、粗悪品もたくさんできてしまって、そこに使いやすさとか見た目の良さ、美術の要素が入れられないかというところで、デザインという職能が誕生したと思うんです。アートとかも割と最近で、17世紀くらいに、いわゆるアーティストっていうのが出てきたんですよね。

油絵の具も普及して、ファインアートって言うんですけど、そういった人たちが出てきて、今までアーツって呼ばれてたものがアートになったんですよね。アートになる前は、別にアートなんて存在してなかった。アートって語源的には”技術”なので、人間が生み出すものすべてみたいなところ、人間の技術なんですよ。人間の技術がアーツ。なので、みんなアートとかも意識してなくて、レオナルド・ダ・ビンチは画家で工学者で、この人はいっぱいの顔を持っていたみたいな。でもレオナルド・ダ・ビンチは画家という職業でも現在見られてますけど、多分当時はその感覚はあまりなかったんだろうなと。世の中の様相を捉えようとして絵も描いていたし、飛行機は、鳥はなんで飛んでるのかという仕組みを知りたくて、骨を描いたらそれを作って飛ばせるように模型にして。あまり専門分野がなかったからこそ、好奇心や探究心に忠実でいろんな発明ができたのかなと思っています。

ルネッサンスもたくさんの文化がミックスしていろんなものが生まれたんですよ。そういう有機的でいろんなものがミックスして新しいものが生まれる場所というのが、今世の中でなくなってきてるなと思っていて、その出発点が僕の中ではアートだったんです。

Q.ずっとお一人で活動されてきたと思いますが

フリーランスってどちらかというと独立っていうような意味合いが頭の中にあって、とにかくフリーランスって独立って線で考えることが多いと思うんですけど、ある程度武者修行をしてそのままフワっと一直線で独立するような。でも結構独立って線ではなくて一度線を切ってるんですよね。線が続いてる延長線上に見えるかもしれないんですけど、一回自分でその延長線というか繋がり、依存みたいなものを切って、結びなおして、一人で立ってるというか。そこから法人を作って事業を成長させていくとなるとさらに独立精神が必要かと思います。

ちょっと哲学的なこと言いますけど四国って同行二人っていうのがあるんです。お辺路さんの話なんですが、お辺路さんって一人で旅してるわけじゃないんですよ。常にもう一人いるんです。そのもう一人というのはお辺路さんを始めた空海と言われてるんですけど。例えば10人ぐらいでお辺路してたとしても同行二人なんですよ。自分ともう一人の自分みたいな。

独立したらいろんなクライアントさんや仲間いると思いますが、ファウンダーはやっぱり孤独です。自分一人ともう一人の自分というものだけなのかなと思います。そして、独立の対義語は依存。取引先の大企業の仕事に依存するとか、この案件がなくなったら終わりなどといった状況に陥ったら本当に余裕がなくなりますし、社内のスーパーマン(仕事ができる)人に依存するのもよくないです。やっぱり孤高のフリーランスもしくは経営者になるにはある程度余白っていうのが必要と思っています。
少し難しい話ですが、お遍路も88カ所を周ります。番初めのお寺と88箇所目のお寺での自分は違った自分です。何周もお遍路を繰り返す人も居ますが、一度回ったお寺を再度訪れることは過去の自分との再会にもなりますが、それはもはや別人です。そうやってどんどん他者になっていく過程が法人が大きくなる過程とよく似てると感じますね。やっぱり事業をスケールさせていくには自分と法人というものを切り離せる覚悟みたいなものが必要です。

─ 「余白」ですか? まさにデザインですね。


依存してたら余白が本当に生まれないというのはフリーランスとかでやっててすごい実感したところで、余白って英語でもプレイ(play)って言うじゃないですか。工学的にいうところの"遊び"。遊びがなきゃ機械は動かない。なので自分ならではのプレイを、それがアートだったりスポーツだったり何でもいいんですけれども、仕事をするからにはプレイの部分を絶対見つけなければクリエイティブになれないのかなって思っています。

この遊びの部分をいかにデザインするかは、起業するとしても重要です。法人を作るにしてもやっぱりやっぱり余白がないとイノベーションは生まれない。イノベーションって一気にゼロイチで新しいものを作るとかではなく常に起こり続けなければならないものなのです。会社も一つのことを何年もできたら良いですが、社会が変わり続ける以上、会社も変わらなければなりません。そこで、余白がないとアイデアも出てこないし、それをしっかり実現する力もありません。アイディアをちゃんと実装することがイノベーションであり、そのアイディアそのものが、余白がないと、プレイがないとクリエイティブなことは生まれない。その遊びこそが事業を動かすための、自分自身を動かすためのエネルギーみたいなところなんですよね。これからフリーランスになられようとしている方、会社を立ち上げようとされている方にもこのプレイ(遊び)を大切にしてもらえればと思います。

 

次回、『アートな取り組みで地域の未来をクリエイターに。』はこちら


PROFILE

石原 佑(いしはら ゆう)

徳島大学 特任助教、NPO法人Arts Shikoku 代表理事

東京造形大学卒業後、都内及び海外でデザイナーとして活動、2018年より生まれ故郷の徳島県にてデザイン会社BLUEを創業。現在、地元企業を中心にデザインコンサルティングを行う。専門はビジネス、テクノロジー、デザインと幅広く、特に社会課題を見据えたデザインの提案を得意としている。

Arts Shikoku:https://www.arts-shikoku.com/

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