吉本興業所属の芸人、梶剛(かじつよし)さん。大阪、東京で活躍したのち、現在は地元である香川県で暮らし、地元を盛り上げる「住みます芸人」として活動されています。
「特別お笑い好きではなかった」梶さんがお笑いの世界を志した理由、「香川県住みます芸人」としてUターンされた経緯についてお話を伺いました。
「テレビに出たい」で芸人へ
僕がお笑いの世界を選んだのは、高校での進路面談がきっかけでした。特にやりたいことはなく、それでも卒業後の進路を決めなければならない。どうしようかと考えていたとき、小学生の頃の文集に「テレビに出たい」と書いた記憶がふと蘇ったんです。では、どんな立場になればテレビに出られるのか。歌が得意なわけではないし、俳優はどうすればなれるのかもわからない。いろいろと消去法で考えていくうちに、思い浮かんだのが芸人だったんです。「芸人さんっていっぱいテレビに出てるな」と思って。
そんなとき、吉本興業の養成学校「NSC」の存在を知りました。さらに、お笑いをやりたい同級生もいて、「じゃあ、一緒にNSCに行こうや」という話になって。ですから、僕のお笑いの道のスタートは「何となく」だったんです。大阪府に行くまで、漫才も見たことがなかったくらいですから。
NSCに行くためだけに香川県から大阪府に出ることは親が納得しないだろうと思い、大阪の大学に進学し、NSCに同級生と入りました。その友人とコンビを組み、「ツッコミってこうするんや」と、基礎から手探りで漫才を学びはじめます。オーディションで合格したり、若手劇場の舞台で漫才を披露したりするうちに、「人前に出て笑ってもらえるのって、こんなに楽しいんや」と実感しました。ただ、相方が家庭の事情で芸人を辞めることになりコンビは解散。僕の芸歴の中では4年という短い期間ですが、いろいろなことが記憶に残っている濃密な時間です。
僕はNSCに残り、芸歴6、7年目頃にムーディ勝山とコンビを組みました。その時期に、芸人を志す動機になったテレビ出演の機会を得られました。ただ、こちらは苦い経験になりましたね。バラエティ番組に出演したのですが、立ち回り方を教えてもらえるわけでもなく、本当に「放り込まれる」感じでした。テレビのルールがわからず、何もできないまま時間が過ぎていきましたね。テレビって難しすぎると痛感しましたし、何もできないために楽しくもなかった。そんなテレビデビューでした。
ムーディ勝山とは東京進出もしたのですが、のちにコンビは解消し、ピン芸人に。しかし、ピン芸人としてたくさんネタを作って舞台に立とうという意気込みはあまりなく、「どうしよう」「もうええかな」というのが正直な感情でした。当時お世話になっていた先輩に挨拶をしようと決め、ハイキングウォーキングのQ太郎さんと会う約束をしたんです。
Q太郎さんも、僕らが解散したことを聞いているので、察するところがあったのでしょう。会ってすぐ、僕が「実は」と口を開く前に「どんなネタをしましょうかね」と未来に向けた話をはじめたんです。僕が「芸人を辞める」と言うだろうと予想して、それを言わさないよう、芸人を続ける前提の話をずっとしてくださったんですよね。お世話になった先輩がこれだけ背中を押してくれているのだから、ピンでチャレンジしてみようと思いました。

「住みます芸人」としてUターン
打たれる覚悟で出る杭に
そうして東京でピン芸人として活動をはじめた僕に、吉本から「香川県住みます芸人」の初代芸人にならないかと声がかかりました。各都道府県に芸人が住み、「笑いの力で地域活性化のお手伝いをする」という取り組みです。今は香川県住みます芸人として活動している僕ですが、実はこのときは断ったんです。東京に強いこだわりがあったわけではありませんが、東京にいる芸人仲間が好きで、彼らと仕事をしたい、彼らと一緒にいられる環境にいたいという想いが強かったのです。
地元である香川県にも特に思い入れはありませんでしたしね。地元が嫌というわけではなく、当たり前すぎて意識することもない、「無」という感覚が近いです。「香川県に帰りたい」ではなく「実家が好きだから」正月やGW、秋祭りの時期に帰省していましたが、「将来的には帰ってこよう」とも特に考えていませんでした。
そんな僕が「香川県住みます芸人」になったきっかけは、父親の体調の悪化でした。これまで僕の選択に一切口を出したことのない妹から、「芸人を辞めて戻ってきてほしい」と言われたんです。その一言で、「辞めよう」と心を決めました。親や家族の近くにいられれば何でもいいと。その話を吉本にしたところ、「じゃあ、香川県住みます芸人をやったら?」と提案してくれました。すでに初代香川県住みます芸人を務めていた、どさけんさんと吉本で活動エリアや時期を調整してくださり、厚意で2代目を譲ってくれたんです。こうして、1度は断った住みます芸人としての活動がスタートしました。

香川県での活動は、僕と吉本社員の方との二人三脚ではじまりました。最初は社員の方が主に自治体に足を運び、「何か一緒にできませんか?」と働きかけました。ですが、今ほど地域創生が注目されている時代ではありませんでしたし、「『笑いの力で』と言ってはいるものの、東京や大阪で売れなかったやつが飛ばされてきただけだろ?」という空気を感じることもありました。「売れなかった人に何ができるの?その人はおもしろいの?」みたいな。もちろん、直接言われたことはないですけどね。ただ、そんなニュアンスのようなことは言われましたし、なかなか仕事にもつながりませんでした。
僕としてはUターンを決めた時に1度芸人を辞めたと思っています。そんな僕に会社が厚意で道を開いてくれたので、会社に対して筋を通したいという想いは強く持っていました。何もせずにいるのは会社に失礼だなと。ですから、最初は恩返しの気持ちで与えられた仕事は何でも全力で取り組みました。でも、活動を続けるほどに、理不尽な壁に何度もぶつかったんですよね。「売れていないやつに何ができるんだ」という雰囲気もそうですし、限られた関係性の上で成り立っているものが多いんだなというのも見えてきて。真面目に勝負している人が損している構図を目の当たりにするたび、腹が立ってきたんです。
あとは「地方だから」の言い訳の多さですね。「こうしたらいいのでは」と提案しても、「地方だから無理」「前例がないからできない」と言われ、最初から諦められることが多かったです。地域発信でも全国的に人気のあるテレビ番組はありますし、地域でもおもしろいものは作れるはずなんです。僕が最初に香川県でテレビに出演させてもらったとき、スタッフの方から「おもしろいこと言わなくていいから。元気に明るくいてくれたらそれでいいから」と言われたんです。「それ、僕がやらなくてもよくないか」と思いましたね。でも、変えたいと思ったところで「前例がない」と言われてしまう。そういう経験が重なって「なら、僕がひとりでやってやる」と思うようになっていきました。
行動に移す大きなきっかけとなったのは、交通事故でした。「変えたい」という気持ちがある反面、「余計なことをせず、流れに乗っていたほうが仕事が増えるのでは」という気持ちもあったんです。出る杭は打たれる、って言うじゃないですか。吉本への強い愛社精神はないのですが、受けた恩は返さなければという気持ちもあって、自分がどう動くべきか揺らいでいたんです。
そんなとき、赤信号で停車していた僕の車に、後ろから飲酒運転の車が突っ込んでくるという大事故に遭いました。背骨が折れ、「よく生きてたな」と思うほどの重症でした。死を実感したことで、「迷っている時間はない」とスイッチが切り替わりました。「やる」「我慢しない」と決め、これまで遠慮していた場面でも、「こうしたほうがいい」と自分の意見を伝えはじめたんです。
意見を伝えるにあたり、仕事がなくなっていくことは覚悟していました。「扱いにくいやつだな」と思われて見切られるかもしれないけれど、それよりも「同じ想いを持つ仲間を増やさないと」という焦りが強かったのです。ところが実際には、仕事が減ることはほぼありませんでした。僕が口火を切ることで、「そうだよな」「やろう」と言ってくれる人が、意外と周りにいたことを知りました。そして、「言うからには、これまで以上に仕事で成果を出さないと」という想いが強まったこともあってか、むしろ仕事が増えたんです。
香川県のエンタメの起爆剤に
「かじ笑店」でマチを盛り上げる
請けた仕事へただ意見を言うだけではなく、自分でも仕事をつくりはじめました。そのうちのひとつが年に1回開催している「かじ祭り」です。香川県のおいしい食べ物や素敵なモノづくりを知ってもらうため、たくさんのお店やクリエイターさんに集まってもらうお祭りです。このような場が年に1回だけではなく、年中あればいいなと思い、発信する拠点として多目的スペース「かじ笑店」を開きました。
かじ笑店があるのは、常磐町商店街にあるビルです。今は通勤通学で人が行き来する程度なのですが、昔は映画館が3、4館もあり、おもちゃ屋さんもたくさん並ぶ、多くの人で溢れる商店街だったのだそうです。商店街の方から昔の写真を見せてもらうと、当時の活気に驚かされるとと共に「寂しくなっちゃったな」と切なくなりました。だからこそ、この商店街の1番目立つ場所にかじ笑店を開き、エンタメで盛り上げる起爆剤にしようと思ったんです。
かじ笑店はDIYで1から作り上げました。最初はボロボロの倉庫のような状態でしたが、壁のクロスの張り替えもお笑いライブができるようステージも自分たちで作りました。「盛り上げたい人が集まる場所にしたい」という同じ想いを持ってくれる人に手を入れてほしいと思い、SNSに「今日は掃除をしようと思います!」など、困りごとや進捗状況を投稿。すると、香川県の清掃業者さんが手伝いに来てくれたり、こちらが何かを求める前に「こういうことなら力になれますよ」と声をかけてくださったりするようになっていったんです。

かじ笑店の完成後、最初にはじめたのは、週1回、金曜日に大阪から芸人を招いて開催する、無料のお笑いライブです。仕事や学校の帰りにふらっと立ち寄って無料でお笑いを見て帰れる場をつくりました。当時は応援してくれる企業がスポンサーのように支えてくださっていたので、そのご支援で光熱費などをまかなっていました。
今は企業からの支援は受けていません。でも、変わらずかじ笑店の利用料は無料です。「誰でも無料でお笑いを楽しめる場をつくり、エンタメで町おこしをしたい」想いからはじまったかじ笑店ですから、スポンサーがいないからといって急にお金をいただくのは違うなと思って。一方で、誰にでも貸すわけではありません。僕が設けたかじ笑店のルールは、自分の利益目的の方には貸さないこと。話を聞いて、人柄や想いを確認してから貸すようにしています。そうでないと、かじ笑店づくりに協力してくださった人たちに示しがつかないですから。無償で協力してくださった多くの方々のおかげで生まれた場所がかじ笑店です。
最近、地元大学のお笑いサークルに所属している学生たちが「お笑いライブをやりたいから、何か月かに1回のペースで貸してほしい」と訪ねてきてくれました。嬉しかったですね。お笑いのプロを目指している人は香川県にはほとんどいないのですが、人に楽しんでほしいから無料のお笑いライブをやりたいという学生たちでした。でも、お笑いライブができる場所はないし、借りるにもお金がかかる。そんな話を聞いたので、「いつでも使っていいよ」と言いました。

ー おわりに ー
「お笑いに自信があったわけじゃない。負けるのは嫌だけど、勝つことに気負わず、ふわっと入ってふわっとやり続けているから、芸人を続けられてこられたのだと思う」と振り返ってくださった梶さん。その自己分析の通り、野心へのギラつきがあるタイプではなく、あくまでも自然体でありながら、「やりたい」を貫いていらっしゃる雰囲気を感じました。後編「この地だからできるへ」では、「かじ祭り」について伺います。
PROFILE
梶剛(かじつよし)
芸人
香川県住みます芸人
吉本興業所属のお笑い芸人。香川県出身。NSC大阪校22期生で、現在はピン芸人として活動中。2012年からは「香川県住みます芸人」として活動拠点を地元・香川に移し、地域に深く根ざした活動を展開。地域活性化イベント「かじ祭り」や「かじ笑店」のプロデュースするなど、地域活性化に尽力している。
よしもと住みます芸人:http://www.47web.jp/
