
岡山県の西北端に位置する、人口約800人、370世帯の小さな村、新庄村。1990年より30年近くに渡って村長を務めてきた小倉博俊(おぐらひろとし)さんは、そもそもどのような経緯で村長を志すようになったのでしょうか。小倉村長の歩みと、見据える今後についてお話を伺いました。
ひょんな縁から政治の世界へ
私が新庄村の村長として初当選したのは1990年のこと。まさか自分が生まれ育った地域の村長を務めることになるなんて思ってもみませんでした。
学生時代はいわゆる「ノンポリ」で、好き勝手なことばかりしているタイプでしたね。福岡県内の大学に通っていた頃には書道部に属していました。親に「文字が下手だと、ラブレターを出しても嫌がられるよ」と言われて、「それはそうだな」と思い入部しました(笑)。書道部には私のような初心者もいたのですが、なかなかパッとした活動ができるわけではなかったですね。そんな折、各芸術関係の部の代表者が集まる学術文化部会から「書道部から人を出してくれないか」と打診があり、そこから、書道ではなく学術文化部会の活動への参加が多くなりました。
あるとき、学術文化部会が主催する弁論大会があり、先輩から「出ろ」と言われて代表として出ることになりました。時代が時代ですから、先輩の言葉を断れなかったのです(笑)。すると、入賞。これは今でもですが、私はマイクいらずで、地声で話したり歌ったりすることが好きなんですよ。ここから、福岡の選挙区で活動されていた国会議員や市長をされていた方から声をかけられ、選挙応援に行ったりするように。今思えば、これが政治に関心を持つきっかけだったのだと思います。
大学を出た私は、アポを取らずに岡山県北選出の国会議員の事務所に行き、「私を使ってください」と直談判しました。今でいう私設秘書、昔でいう書生のような立場で、「雑巾がけでも構いません。ここで働かせてください」と申し出たのですが、これが追い返されまして。ただ、諦めずに毎日通い詰めた結果、最終的にはお手伝いをさせていただけることになりました。ところが、その方が1990年に勇退されることになったのです。
先生が勇退されると、私も仕事を失うことになります。「さてどうしようか?」と思案していたところ、県会議員への出馬のお声がけをいただきました。乗り気になり記者会見をしようと準備を進めていた矢先、地元の事情で出馬要請の話が取り下げられることに。無理をして出るのも良くありませんから、県会議員への出馬は断念することにしました。このとき、お世話になってきた先生から「人生には必ず三度チャンスの風が吹いてくる。今回は残念だったけれど、これは1回目であり、2回目3回目の風が吹くときがやってくる。それまで、夢を持ってがんばりなさい」と言っていただきました。この言葉を受けて、「くじけずチャンスを待とう」「よし、がんばろう」と切り替えられたのです。ちなみにその先生自身も、最初の選挙では落選し、2度目の挑戦で当選を果たされています。
そうして再び進路を模索していたころ、今度は地元の方から「ぜひ村長選挙に出ないか」と要請がありました。新庄村は私が中学生まで暮らした地域ですから、私が役に立てるのであればとツルの恩返しのような気持ちで、選挙戦に臨むことになりました。お世話になってきた先生が「地方自治は民主主義の学校だ」「やりがいがあり、おもしろい。そういうことを君も忘れないでがんばれ」と言っていたことも思い起こされましたね。
当時は経済成長に向かっていく時代で、新庄村は「メルヘンの里構想」という振興計画に取り組んでいました。この構想に対して賛成派と、「ヨーロッパ風のメルヘンチックはピンとこない。和の精神を活かし、地域資源を活かした村づくりがいいのでは」という慎重派、反対派とに村民が分断されている状態だったのです。このいわば反対派から担ぎ出されたのが私でした。あとは、高齢化など時代の課題があるなか、窓を開けて新しい風を入れようという流れがあったのかなとも思います。
選挙は、農協の組合長を長く務められていた、まさに村民の生活と密着している強敵と戦うことになりました。横綱に稽古をつけてもらうつもりで出たところ、当時の最年少で当選。23票差という僅差で、奇跡的に勝ったのでした。

情報を集め、行動する。
動き続けることが肝要
村長になった私がまず取り組んだのが、村民の意識改革でした。意識改革というと失礼な言い方になるかもしれませんが、村民の気持ちを変えていく必要があったんです。23票差ですから、対抗馬の方を支持していた方も多くいるわけで、村が派閥で分断されている状態になっていたんですね。その状態を何とか解消しなければと思い、「新庄村は小さな村です。みんなで力を合わせて村をつくっていきましょう」と、「村民一家族」を旗印に掲げました。
言葉に表すだけでは何も変わりませんから、その考えを具体的な形にすべく「新庄村いきいき対策条例」を制定しました。結婚祝い金や出産祝い金、活動費の支給などを進めていったのです。
最初に手掛けた政策は、前編でも触れた福祉施設の建設です。少子高齢化が進んでいくなか、まず取り組むべきは、保健・福祉・医療・教育・文化の充実だと考えました。福祉の先進地であるヨーロッパでは、当時すでに「ユニバーサル」や「ノーマライゼーション」という理念があり、新庄村でもそれらの理念を大事に、総合的な取り組みをしてみたいと思ったのです。そこで「メルヘンの里福祉計画」を立案。ひとつ屋根の下で一体的に福祉に取り組める設計をし、今でいう総合福祉会館である新庄村ふれあいセンターを作ったのです。
当時は、「そんなものを作っても意味がない」という意見もありましたね。費用のかかる村の中心地になんて作らず、山奥に建てればいい、と。でも、私はこうした福祉施設こそ村の中心に置くべきだと考えていました。視察に行って勉強して必要性を訴え、土地代は高かったものの村の中心地に施設を作り上げました。今では当時反対されていた方が年を重ね、1番喜んで施設を使ってくださっているんですよ。先見の明があったかなと思います。
これ以外にも、新庄村での取り組みは、国に先駆けたものも少なくありません。後に国が導入するような施策を先んじて実行してきました。その発想を支えているのは、朝1番に新聞を各紙読むというルーティンなのかもしれません。これは今も続けていまして、気になる記事があれば、切り抜いて保存しているんですよ。デジタル時代ではありますが、パソコンや携帯には長けていないので、いまだに新聞を切り抜くアナログなインプットが主です。ファイリングが苦手なので、「村長室が1番汚い」と言われてしまうこともあります(笑)。
こうした積み重ねから、新たな構想を生み出せているのではないかと思っています。人生は夢があるほうが楽しいものです。夢と希望なくして未来はなく、挑戦なくして前進はありません。リーダーには、戦略的なビジョンを持ち、時にリスクをかけてでもやろうとする覚悟が必要なのだと考えています。
村長として、大きく悩んだことはあまりありません。小さな村ですから財源にも限りがありますが、国会議員の秘書時代に得られた人脈や経験から、村にとって有利な資金の借り方、返し方、補助金や交付金の活用法を熟知しているため、村の財政にも貢献できているのではないかと思います。「新庄村は、貯金をしながらもしっかり取り組みができているね」と言っていただくことも多いです。
悩まない背景には、悩んでいても解決できるわけではないと思っていることもあるのでしょう。企業の社長が孤独であると言われるように、自治体の長も耐えがたきを耐えて決断していかねばならない場面が多いのです。また、性格的にも恵まれたのでしょう、あまり引きずらないタイプなのが良いほうに働いていると感じますね。岡山県出身の彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)さんの言葉に「なせばなる」というものがあります。江戸時代、米沢藩の藩主だった上杉鷹山(うえすぎようざん)が藩士に与えた「なせばなる なさねばならぬ何事も」が元の言葉で、平櫛さんはその言葉を座右の銘にしておられたのだそうです。私もその言葉を大事にしながら、やるべきことをやっていこうという思いで進んできました。
私の行動や姿勢の裏には、いろいろな方の名言があります。悩むことはあまりないと言いましたが、とはいえつらいことが全くなかったわけではありません。そんなとき、支えとなるのは、山本五十六さんの「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。」という言葉です。私は決して優秀な人間ではありませんが、図太さを自分の強みとして、ピンチはチャンスだと捉えて歩んできました。

今あらためて感じる
「共生できる村」の重要性
1990年から長期に渡り、アクセルとブレーキを使い分けながら村政に取り組んできました。これからの村の未来を考えると、何よりも大切なのは、村民一人ひとりが「新庄村、ここにあり」と、ダイナミックな発想を持ち、もっと自信を持って進んでいく、そんなプライドを持つことではないかと思っています。心のありようが、やはり最も重要なのではないかと。
今の時代を見ていると、どうもスマート過ぎるといいますか、要領が良すぎると感じます。自分さえ良ければいい、今だけ良ければいい、お金さえ得られればいい、そんな風潮がひろがっているような気がしますね。そうではなく、お互いが共感し合い、共に生きていけるような村づくりができると私は思っています。合理的なことが求められる社会になりつつあるなか、ますます歴史や文化を大切にしていく姿勢が求められるのではないでしょうか。新庄村もそうした歴史を次世代につないでいかなければと思っています。
たとえば、地域のお祭りも存続が危ぶまれるようになってきていますが、コミュニティを消滅させてはいけません。もう一度発展させ、残すべきものは残せるよう、次世代に繋いでいかなければならないと思っています。
がいせん桜通りでは、秋になると桜の落ち葉を、「出雲街道新庄宿町つくりの会」の皆さんが自主的に片付けてくださっています。新庄村は昔から、ボランティア精神が自然に根付いているのかもしれません。そもそもボランティア活動とは思っておらず、日常生活のワンシーンであり、お互い様だと思っている節もあります。お節介を焼きたい、協力し合いたい、という気風が昔からあるのではないでしょうか。「自分だけが良ければいい」という風潮が強まるなか、こうした「お互い様」の精神、心は守っていくべきものだと思っています。
これからも村民一家族で、自助共助公助含め、みんなで喜びも苦しみも分かち合えるような地域共生社会、自主自立した村のモデルを追求していきたいです。それは、新庄村のように小さな村だからこそできることでしょう。152年、合併せずに歩んできた私たちにとって、自主自立は今後より一層大事な指針になるでしょうし、大事にしていきたいことだと思っています。
私は子年生まれです。本当は童謡の「俵のネズミ」のように座って米を食べられるような存在でありたいんですが、性分ではないんです。人間には、誰しも生まれ持った何かがあると思っていて、私は自分のことをドブネズミのようなものだと思っているのです。ドブに大人しくいるようでは、ゴミと一緒に流されてしまうかもしれませんから、常に動き回って逃げ道を確保しておかなければなりません。性格的にも、じっとしていることが苦手で、常に動き回っていたいんですよね。生き残るためには、未来を見据えて常に動き続けることが大切だと思っています。

ー おわりに ー
最初から村政への強い関心があったわけではなく、そもそもの政治の世界に入るきっかけもユニークだった小倉村長。お話しぶりからも気さくなお人柄が伺え、今でも村民から直接連絡が来て話す機会が多いというのも納得です。次回は特別編「新庄村が目指す地域共生社会」として、新庄村の取り組みについてより詳しく伺いました。
PROFILE
小倉博俊(おぐらひろとし)
新庄村村長
1948(昭和23)年、岡山県 新庄村生まれ。福岡大学卒。大学生の頃、アルバイトとして関わったことから政治の世界に興味を持つ。大学卒業後に上京、大村襄治衆議院議員(第39代 防衛庁長官)の秘書を務める。1990(平成2)年に42歳で新庄村長となり、以後4期連続16年務める。2014(平成26)年に再選、2022(令和4)年の選挙でも選出され、再選後3期連続、現在通算7期目の任期を務める。
【主な役職】
岡山県町村会 会長
全国山村振興連盟 理事
岡山県市町村振興協会 理事
岡山県後期高齢者医療広域連合 理事
岡山県市町村職員共済組合 監事
日本赤十字岡山県支部 評議員
一般社団法人岡山中央総合情報公社 理事
新庄村社会福祉協議会 会長
真庭森林組合 理事