前橋を動かす個人と民間の力
<アートがもたらす芽吹き>

〜thincなひと・田中仁さん × 中江康人さん × 群馬県前橋市〜

群馬県前橋市に新たな風を吹き込んだ白井屋ホテルは、「めぶく。」という前橋市ビジョンを掲げた地域活性化プロジェクトの象徴的な存在です。江戸時代から続く歴史ある老舗旅館が前橋市の衰退とともに廃業した後、この場所を再生するという挑戦を手掛けたのは、株式会社ジンズホールディングス代表取締役CEOの田中仁(たなかひとし)さん。鳥取県政アドバイザリースタッフの中江康人(なかえやすひと)さんを聞き手に、白井屋ホテルの誕生秘話や、アートが地域にもたらす役割などを深掘りしています。

株式会社ジンズホールディングス 代表取締役CEO
一般財団法人田中仁財団 代表理事
田中仁さん(群馬県前橋市出身)

KANAMEL株式会社 代表取締役グループCEO
鳥取県政アドバイザリースタッフ
中江康人さん(鳥取県鳥取市出身)

前橋市ビジョン「めぶく。」とともに
誕生した白井屋ホテル

中江:白井屋ホテルには私も何度か泊まったことがありますが、めちゃめちゃ居心地が良いですね。アートに包まれて非日常を体験できる空間で、サウナも今までにない体験ができて驚きました。元々は老舗の古い旅館だったとか。

田中:そうなんです。元は300年の歴史を持つ『白井屋旅館』でしたが、1970年代にホテル業へ転換。その後、前橋市の衰退とともにホテル競争に敗れて、2008年に廃業したんです。その建物をリノベーションしたのが現在の白井屋ホテルです。

(Photo:Shinya Kigure)

中江:リノベーションの一言で言っても、大変な議論があったのではないでしょうか。

田中:もちろんです。当初は私自身でホテルを経営しようとは思っていなかったんです。ところが、地域の仲間たちから「跡地がマンションになってしまいそうだから、田中さんなんとかできませんか」と頼まれ、購入してしまいました(笑)。購入したものの、自分で運営する予定はありませんでした。ホテルの運営会社に依頼したところ、運営会社からは「田中さんは何を言ってるんですか。誰が前橋に来るんですか」と反対されてしまいました。

ホテルというのは人が集まるところにニーズがあり、初めて成り立ちます。「ホテルがあるから、そこへ行くわけではない」と言うんですよ。もう1つは、「ホテルは街とともにある」とも言われました。そして「前橋とはどのような街ですか。全く印象がない」と。確かにそうだと思いました。そこで、前橋市のマチづくりにはどのようなビジョンがあるのかと考えるようになったんです。

ちょうどその頃、当社のオフィスに新任の市長が挨拶に来られました。そこで、前橋市のマチづくりのビジョンはどのようなものですかと尋ねると、「そんなものはない」と言うんですよ。衝撃ではありましたが、確かに明文化されたビジョンを持っている自治体は実はほとんどないんですよね。多くの自治体は、キャッチフレーズだけなんです。私は事業経営者なので、ビジョンがなければ、市民を含めて事業活動をする人たちの指針がないと思ってしまうのです。そこで、ビジョンを決めましょうと提案し、設立した一般財団法人田中仁財団が官民共創事業として資金負担をし、その策定から関わらせてもらいました。

中江:その前橋市のビジョンというのが糸井重里さんが命名した「めぶく。」なんですね。

田中:はい。さまざまな企業のブランド戦略を手掛けるドイツのコンサルティング会社に依頼をしたら、200ページに及ぶ資料にまとめてくれました。それが「Where good things grow.(良いものが育つまち)」。しかし、このままでは市民に伝えるには難しい。そこで、前橋市出身でもある糸井重里さんが「めぶく。」と解釈してくれて、そこから白井屋ホテルの方向性も定まりました。「めぶく。」ためのホテルはどうあるべきか、デスティネーションホテルとしてどうあるべきか、ということで、やはりそれを体現するためにはアートや建築が必要だと考え、藤本壮介さんに建築を、アートには国内外のアーティストに依頼をしました。

(Photo:Katsumasa Tanaka)

中江:あの空間は唯一無二ですよね。アートもそうですが、建物や内装自体もアートそのものという感じ。共存しているというか、建物とアートの境がないというか。経営的にはどうなんでしょうか。

田中:評価いただいて嬉しいですが、黒字化するために日々、奮闘している感じです。コストのかけすぎですね(笑)。

中江:でしょうね(笑)。特徴的なのはレストラン。めちゃくちゃ美味しい。東京から食事のためだけに行っても良いぐらいのクオリティですよ。

田中:さらにもっと良くなったのでまたお越しください。

マチに賑わいをもたらす
新たな拠点「まえばしガレリア」

中江:白井屋ホテルをきっかけに、マチが華やぎはじめたように感じています。2023年には『まえばしガレリア』もオープンされましたね。

田中:そうですね。まえばしガレリアにはギャラリーとレジデンス、レストランが入っているんですよ。元々はスナックやバーなど夜のお店が多い路地裏のような地区に、前橋市が土地を持っていたのですが、言わば「アンタッチャブル」な場所で売りに出されました。再開発のために購入した不動産会社はマンションを建てようとしていました。しかし、このようなエリアにマンションというのはあまり良くないのではという声があり、地域の仲間や市とともに不動産会社にお願いをして、なんとか理解をしていただき買い戻したんです。そこに白井屋ホテルに次ぐデスティネーションの場所としてまえばしガレリアが誕生しました。


田中:そこにはタカ・イシイギャラリー、小山登美夫ギャラリーをはじめ、日本を代表するギャラリーが入居しています。北関東で一番高級な店として、三ツ星レストランの『レフェルヴェソンス』でスーシェフだった方が、シェフを務めているフランス料理店『セパージュ』もあります。26軒のレジデンスは全てテラス付き。それまでの前橋市のレジデンスの最高坪単価の倍近いのですが、それでも1年以内に完売しましたね。

中江:地域の人も、県外から訪れた人もそこで交わるというように、まえばしガレリアはマチの賑わいを作り出しているんですね。

田中:一つひとつの点になっていますね。県外からいらした方は必ずギャラリーを見に来ています。レストランのお客様は地域の富裕層が中心になっています。これまで富裕層がお金を使う場所が前橋市にはなかったんですよ。本当に良いお店ができれば食べに来てくれる。鳥取市にもカニ料理の名店がありますが、みんな飛行機代を出してでも食べに行っていますよね。

中江:富裕層は地域にもいますからね。鳥取市のその名店でも、ただ残念なのは点と点が繋がっていないこと。その店は店で独立しているんです。なんとか交わらせようとしてはいますが、なかなかに難しいですね。

「アート」の持つ力とは

田中:アートは非常に強い求心力があると思います。人口全体から見ればアートに関心がある人は多くないかもしれませんが、コアな層を惹きつける力がアートにはあるんです。 面白いのはギャラリーができて、今まではアートに無関心だった人たちが少しずつ興味を持つようになってきたことです。地域の富裕層はこれまで車や時計、自宅、美味しい食べ物といったものに関心を寄せていましたが、そうした人がアートの世界に足を踏み入れると、熱心に作品を買い集める方も増えています。アートは最初の1点目を購入するまでのハードルが非常に高いんですよ。はじめてアートを買う時私自身もそうでしたが、他の買い物では普通に払える金額でも、アートとなると迷うんです。でも、1つ購入すると不思議なもので、買い集める魅力を感じるようになりますね。

(Photo:Takashi Yoshimura)

中江:その感覚、わかります。アートが日常の中にあるだけで、澄んでいくというか、曇り空が晴れていく感覚があります。じっくりと見て、あるいは見なくとも、そこに存在感があるじゃないですか。パワーというか、存在感みたいなものがあって。アートがある暮らしとない暮らしとでは大きく違うなと思います。

ー おわりに ー

白井屋ホテルは前橋市の盛衰の歴史を象徴するような存在です。もともとの白井屋旅館は江戸時代の創業で、明治・大正・昭和時代には旧宮内庁御用達。文豪・森鴎外、陸軍軍人・乃木希典らの著名人に愛されてきたそうです。しかし、田中さんが説明してくれたとおり、前橋市の衰退を追うように2008年に廃業となりました。

そんな老舗旅館の復活は2020年。単なるホテル経営の枠を超え、マチの賑わいを生み出す拠点として注目されています。「めぶく。」という前橋市のビジョンを体現し、アートや建築を通じて地域の魅力を高めたこのホテルは、全国的に見てもユニークな存在です。

2023年には、まえばしガレリアが誕生し、今後はさらに点と点を繋ぎ、前橋市全体が一つの芽吹く場所として発展することを期待せずにはいられません。

ここまで田中さん個人としての活動にフォーカスしてまいりました。次回『民と官で手を取り合う』では、企業として地域共生にどのように挑戦をしているのか、お話しいただきます。ぜひ、ご覧ください。

『民と官で手を取り合う』はこちら


PROFILE

田中仁(たなかひとし)
株式会社ジンズホールディングス 代表取締役CEO
一般財団法人田中仁財団 代表理事

1963年群馬県生まれ。1988年有限会社ジェイアイエヌ(現:株式会社ジンズホールディングス)を設立し、2001年アイウエア事業「JINS」を開始。2013年東京証券取引所第一部に上場(2022年4月から東京証券取引所プライム市場)。2014年群馬県の地域活性化支援のため「田中仁財団」を設立し、起業家支援プロジェクト「群馬イノベーションアワード」「群馬イノベーションスクール」を開始。現在は前橋市中心街の活性化にも携わる。

株式会社ジンズホールディングス:https://jinsholdings.com/jp/ja/
一般財団法人田中仁財団:https://www.tanakahitoshi-foundation.org/


中江康人(なかえやすひと)
KANAMEL株式会社 代表取締役グループCEO
鳥取県政アドバイザリースタッフ

1967年鳥取県鳥取市生まれ。大学卒業後、株式会社葵プロモーション(現・株式会社AOI Pro.)に入社。CMプロデューサーとして数々のテレビCMを手掛けACCグランプリ、プロデューサー賞など受賞多数。同社代表を経て、2017年AOI TYO Holdings株式会社(現・KANAMEL株式会社)代表取締役に就任。鳥取県政アドバイザリースタッフを務め、出身地鳥取県の企業家や住民の交流拠点で起業支援などにも尽力している。

KANAMEL株式会社:https://kanamel-inc.com/

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