「行動すると、その先がある」。そう話すのは、東京都を中心に活動する画家のRömell(ロメル)さんです。個展やネットショップでの販売、企業とのコラボレーションと活動の幅は広く、制作は年間150作品以上。絵を専門的に習った経験はほとんどなく、独学でいまの場所までたどり着きました。
絵に本気になったのは20代前半。「自分には何もない」という焦りの中で、ふと描いた一枚が画家人生のはじまりでした。そこから1日2〜3時間睡眠で描き続け、1度は筆を折ってデザイナーへ。沖縄県では無一文になりかけ、世の中が止まりかけたタイミングで、40代にして再び首都圏へ。浮き沈みのある道のりでも「絵だけで生きていく」と決められたのはなぜなのか。その歩みを伺いました。
目次
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01
「何もない」焦りの中で、絵に出会った
- 01-01 衝動のままに描いた初作品
- 01-02 出遅れを埋める方法は描く量だけだった
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02
自分のために描き、誰かのために描くまで
- 02-01 サウナでの世間話が、ギャラリーデビューへ
- 02-02 描くことが生きる支えに
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03
筆を置いた先でであったもの
- 03-01 原動力を失って、デザインに出会う
- 03-02 ひとりではミラクルにたどり着けない
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04
直感で残った沖縄県、覚悟を決めて離れる
- 04-01 無一文でも、帰らないと決めた
- 04-02 画家として再出発
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05
退路がないから、まっすぐ描ける
- 05-01 「NOと言わない」と決めた理由
- 05-02 二人三脚で歩ける人と一緒に
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06
絞らないから、遠くまで行ける
- 06-01 あたたかい時間を届けたい
- 06-02 救われた側から、つくる側へ
- 06-03 つなぐ人になって、背中を押したい
Profile
Römellロメル
画家
「何もない」焦りの中で、絵に出会った
衝動のままに描いた初作品
いま私は、絵画一本で生計を立てています。日々絵を描きながら、個展を開いたり、企業からのご依頼に応えたりする毎日です。ただ、画家への入口は、ごく些細な出来事でした。
20代前半、自分には「何もない」という焦りが常にありました。働きながらドールハウスをつくってみたり、編み物をやってみたり。何が自分に向いているのか、自分はここにいていいのか。そんなことを模索する日々を過ごしていたのです。ただ生きているだけで素晴らしいはずなのに、それだけではいけないような気持ちに囚われていました。
そんなとき、たまたま絵を描く機会がありました。感情のままに、ある道具を使って描いたら超快感で。「これだ!」と感じたその瞬間に、絵の道に進もうと決めました。

出遅れを埋める方法は描く量だけだった
絵の道を歩みはじめてからは、われながらタフな生活を送っていました。1日2〜3時間睡眠で描き続ける日々が6〜7年ほど続きます。若さもあったと思いますが、それ以上に焦りがあったのです。
焦りの正体は、圧倒的な出遅れです。同世代の方々はすでにプロとして活躍しているのに、自分には美術に関する経歴が何もありません。その引け目を埋める方法は、描く量しか思いつきませんでした。
習うことも試していて、1度はデッサン教室に通いました。ですが「こうしなければいけない」という教わり方が、自分の表現の仕方とは噛み合いませんでした。枠にはめられると窮屈で、つまらなくなってしまったのです。「だったら自分が楽しめる方法で実力をつけていこう」「人の3倍描こう」という想いで独学のまま描いていました。
自分のために描き、誰かのために描くまで
サウナでの世間話が、ギャラリーデビューへ
描きはじめて1〜2年の頃、思いがけない縁がサウナで繋がりました。通い始めてから2〜3年ほど経って、常連の方々と少しずつお話しするようになってきました。
ある日、お互いの仕事の話題になり、私が絵を描いていると伝えたら、その方はギャラリーオーナーだというのです。そして「ギャラリーに合わなければ断るけど、1度絵を見せてほしい」と言ってくれたのです。後日お見せし、代官山のギャラリーに作品を置いていただけることになりました。
しかも最初の企画が雑誌に取り上げられた影響か、作品は完売しました。作家としてのイロハは、このギャラリーで教わりました。とても感謝していますし、30年経ったいまもお付き合いが続いています。
描くことが生きる支えに
そうして人前に出すようになった当時の作品は、かなりダークなものでした。幼少期の傷が、そのまま作品に表れていたように感じます。私の幼少期は小説にできるんじゃないかというくらい波乱万丈で、友人には「よくグレなかったね」と言われるほどです。
その感情を絵にぶつけていたら、共感してもらえ、ファンもできたのです。感情的な絵が誰かの救いや癒しになるなら嬉しい。そう思って描いていましたが、いま振り返ると、描くことで人や社会とつながれたことのほうが、自分への支えになっていたように思います。
7年、8年と描き続けるうちに、少しずつ自分が変化してきました。「励まされた」「ありがとう」という言葉をいただけることが嬉しくて、そう声をかけてもらうたびに、幸せを届けていきたいと思うようになったのです。そう気づくと、ダークな絵を描き続けることに違和感が出てきました。もっと違うものづくりがあるのではないかと考え、一度筆を折ったのです。

筆を置いた先でであったもの
原動力を失って、デザインに出会う
筆を置いてからしばらくは、目標を見失った状態でした。絵を描くことは私にとって生きる原動力だったので、それがなくなり、生きている意味を見出せないマインドになっていたのです。
それでも、クリエイティブが好きだという気持ちは残っていました。絵画とデザインは違うけれど、「目に映るものをつくる」という共通点からデザインに興味を持ち、30代前半に独学で学びはじめます。アルバイトをしながらポートフォリオも自作し、100社以上の選考を受けました。不採用通知ばかりで心が折れていましたが、半年ほど活動して3社から内定をいただき、そのうちの1社に入社します。
未経験からの転身でしたが、不安より期待のほうが大きかったです。デザインなら絵の代わりになる、と考えていたわけではありませんでしたが、働くうちに絵に感じていたやりがいがデザインへ移っていきました。結果的に、思いを別のかたちで届けられるものを見つけられました。
ひとりではミラクルにたどり着けない
入社した会社は、正直に言うと労働環境はよくありませんでした。それでも仕事はやりがいがあり、楽しかったです。何より大きかったのは「クライアントありき」のものづくりだということ。絵は自分だけで完結しますが、デザインには相手の事業や想い、届けたい人という外側の条件が加わります。その条件と自分の引き出しが噛み合ったとき、どちらか一方だけでは絶対にたどり着けない答えが出てくる。そのミラクルが起きる瞬間に夢中になって、人一倍学ばなければと必死に食らいついていました。
自分が手がけたデザインの反響や売上が、数字で返ってくるのも励みでした。ただ、あれほど夢中になれた理由は、やりがいだけではなかったと思います。それ以上に嬉しかったのは、クリエイティブで「ありがとう」と言っていただけること。自分のつくったものが誰かの役に立っていると実感できることが、何よりの原動力になっていました。
直感で残った沖縄県、覚悟を決めて離れる
無一文でも、帰らないと決めた
走り続けた結果、先に音を上げたのは体でした。会社の支店がある沖縄県に移住して働いていたのですが、過労で倒れて即時入院となり、この出来事をきっかけに退職することになります。同じ頃、会社からの給与の支払いも滞っていて、しばらくは貯金でしのいでいたものの、その資金も尽きてしまいました。
東京都にいる友人はみんな帰っておいでと言ってくれていたのですが、「このまま帰ったら沖縄県が嫌いになるから、帰ってはいけない」と直感し、沖縄県に残りました。
ホームレスになる覚悟で、歩いて住みやすそうな道路を探していたぐらいでしたが、救いになったのは、よく通っていた洋服屋さんでした。そこで紹介していただいた方から、公的な職業訓練の存在を教わったのです。受講を終えたあとは、沖縄を代表するITの会社でグラフィックデザイナーとして入社しました。人の温かさに触れたことで、海や空の広さにも気づけて感動し、あらためて沖縄県の良さを実感しました。夫とも出会い、息子も授かりましたし、あの直感は間違っていなかったと思います。
画家として再出発
2社目のデザイン会社の退職後は、フリーランスデザイナーになりました。最初の仕事は、無償での友人のWebサイト制作です。それを見た方が連絡をくださって、お客さまがお客さまを呼ぶ好循環ができあがっていきました。沖縄には「ゆいまーる」という助け合いを指す言葉があり、知り合いから知り合いへ広めていく力が強い土地柄です。いずれも特別な営業活動はしていませんでしたが、仕事の割合は都内半分、沖縄半分ぐらいでした。
そんな沖縄県を離れることを考えたのは離婚がきっかけでした。円満な別れでしたが、周りに甘えないよう環境を変えることにしたのです。ちょうど40代に入ったところで、画家としてはもう遅いぐらいとも感じていました。「死ぬ気でやりたいことをやろう、これが最後のチャレンジだ」と腹を決めました。
画家としての再出発の為、子育てしつつ仕事を掛け持ちして約2年程で何とか300万円程の資金を貯めました。ですが、賃貸の契約や沖縄からの荷物の運送など、東京移住の準備であっという間に200万円が消え、手元に残ったのは100万円ほどとなってしまいました。
そうしてなんとか移住の準備を整えたのですが、移住予定日の1カ月前に新型コロナウイルスの感染が広がりはじめます。周囲に止められたり、人の移動も制限されはじめ、さまざまな心配がありながらも、動くならいましかないと思ったのです。

退路がないから、まっすぐ描ける
「NOと言わない」と決めた理由
上京してみると、コロナ禍の影響は予想以上でした。デザインのクライアントは個人事業主の方が多く、どんどん廃業していったのです。稼ぎながら絵の道を探すつもりが、稼ぐ道を断たれてしまいました。
こうなったら、絵一本で勝負しようと決心しました。もちろん不安だらけで、すごく怖かったです。それでも踏ん張れたのは、息子を守らないといけない現実があったから。また、私は人生に超えられない壁はないと思っています。「全部が与えられた試練で、これを耐えた先に絶対ご褒美がある」と自分に言い聞かせて乗り越えてきました。決して強い人間ではないので、思い込むことで自分を励ましています。
もっとも、そこまで自分を信じられるようになるには時間がかかりました。若い頃は、せっかくいいお話をいただいても「自分なんて」と思い断ってしまっていたのです。無理だと思わなければ、もっと早く動けたはずでした。だからいまは、メモの一番上に「NOと言わない」と書き、ピンで留めています。方向性があまりに違うときは感謝してお断りしますが、「自分の才能では無理だろうから」という理由でNOを言わないと決めました。

二人三脚で歩ける人と一緒に
画家としての最初の一歩は、情報集めです。ひたすらネットでギャラリーを調べ、手当たり次第に見に行っていました。ただ最初の1年はコロナの影響でほとんど開いておらず、貯金がすり減る中、給付金などに助けられてしのいでいました。
そうやって足を運ぶうちにご縁が生まれ、いまもお付き合いが続いているギャラリーがあります。受賞をきっかけにお声がけいただく機会も増えましたが、即決はせずに必ず一度足を運び、オーナーの方と話をしてから決めています。作家とギャラリーは、二人三脚で歩む関係だと思っているからです。作品を預けて終わりではなく、どう見せるか、次はどんな企画にするかを一緒に考えてくださる方でないと、いい展示ができないと感じています。幸い、作家を心から応援してくださる、アート愛の深いオーナーの方々に恵まれており、会場に足を運んで「次はこういう企画でやりましょう」と声をかけてくださることもあります。
いまは個展の会場に立つことが、一番のモチベーションです。作品や私に出会ってくださること、そして作品を迎え入れてくださること、ひとつひとつに感謝しています。普段はひとりで描いている時間が長いぶん、会場でいただく言葉が次の1枚を描く力になっています。

絞らないから、遠くまで行ける
あたたかい時間を届けたい
個展などのリアルな場に足を運んでくださった方に何を返せるかを日々考えています。原画には写真では伝わらない奥行きがあり、その筆跡こそがお礼になると考えているので、表現する上でもとても大事にしています。
自分の表現を一言で表すなら「あたたかい」でしょうか。動物が入る作品は、ちょっと笑えるような崩れた表情にしていて、クスッと笑ってもらえる感じで描くことが好きなのです。作品を通して穏やかな気持ちを届けたいという願いは、Römell(ロメル)という名前にも込めています。
ただ、いろいろなモチーフやテイストで描くので、「個性がない」「ぶれている」と感じる方もいるかもしれません。ですが、そういった声は気にしないと決めています。デザイナー時代に夢中になった、ひとりではたどり着けない答えが生まれる瞬間がいまも好きだからです。企業とも、学校とも、ほかのクリエイターとも組んできましたが、相手が変われば出てくる答えも変わる。ジャンルを絞らないからこそ、出会える人が増え、多くのミラクルな作品が生まれることを期待しています。

救われた側から、つくる側へ
夢は絵本を出版することです。子どもの頃の私は人とコミュニケーションを取るのが苦手で、国語の授業で教科書を読む番に当てられた時に緊張で泣いてしまうような子でした。安らぎは、児童館で絵本を読み、その世界観の中に自分を置くこと。『ちいさいおうち』(バージニア・リー・バートン 作/岩波書店)『どろんこハリー』(ジーン・ジオン 文、マーガレット・ブロイ・グレアム 絵/福音館書店)、とくに『スノーマン』(レイモンド・ブリッグズ 作/評論社)が好きで、本を開くとその中に友達がいるような感覚になれたのです。そんな絵本を、いつか自分で描きたいと思っています。
絵本づくりに触れた時期もありました。きっかけは、デザイン会社時代の同僚に送っていた年賀状です。それを見た彼女が「絵本に向いていそう」と言ってくれて、ご主人が所属する絵本グループ「My Piece Art Project」に紹介してくれたのです。そのご縁で、ご主人が所属する絵本グループ「My Piece Art Project」に加わったのです。日本の絵本には王道の構成があると知りましたが、そこはつくることそのものを楽しむグループ。本当に楽しい時間でしたし、幼少期の救いだったからこそ必ず叶えたいと思っています。
絵本を勧めてくれた同僚のご主人とは、地域とアートを融合させる作家[琉球イラストレーション」与儀勝之さんです。実はthinc Journalでも取材させていただいている与儀さん。おふたりは何でも相談できる親友であり、ライバルだそうです。
つなぐ人になって、背中を押したい
いつか、橋渡しのような役割もできたらと思っています。絵を介して、企業とクリエイター、誰かと誰かが出会うきっかけを自分がつくれたら、それほど嬉しいことはありません。
そしてもうひとつ、伝えたいことがあります。何かに対して自分には出来ない・無理だと決めてしまう方に出会うと、ご自身で自分の可能性を否定してしまう事に勿体なさを感じます。私自身、それでずいぶん挫かれてきました。私はほとんど絵を教わることがないままここまで来ています。何を習っていたか、学歴がどうかではなく、「やりたい」という気持ちのほうが人を遠くまで運んでくれると実感しています。お金がないから、環境が整っていないからと諦めている人に、「そんなことはない」と感じてもらえたら最高です。行動すると、その先がある。そして見える景色が本当に変わります。

ー おわりに ー
頭の中には「超強い私」と「超弱い私」がいて、いつも喧嘩しているのだそうです。どちらに軍配が上がるのかと尋ねると、「楽しいが勝つ」というひと言でした。何かをはじめられない理由は、いくらでも見つかります。けれど、できない理由を数えるより、どちらが楽しいかで小さな一歩を選んでみる。その積み重ねが、独学のまま画家として立ち続けている人の芯をつくってきたのだと思います。





