複業フリーランスとして生きる
<縁あって岩手へ>

〜thincなひと・手塚さや香さん×岩手県釜石市〜

岩手県釜石市を拠点に活動するフリーの取材ライター、キャリアコンサルタント、移住定住を促進する『いわて地域おこし協力隊ネットワーク』のマネジャーとして活動する手塚さや香さん。「複業フリーランス」として、それぞれの仕事を、時にスキルや知見を掛け合わせながら進めています。

埼玉県出身の手塚さんが、なぜ岩手県に根差して活動することになったのでしょうか。ご自身のキャリアの変遷についても伺いました。

盛岡への配属が、縁のはじまり

私は現在のさいたま市、旧浦和市の生まれです。人口が増えていく郊外で、地域との関わりや地域の文化に特に触れることなく育ったため、郷土愛もまったくありませんでした。大学では法学部を選び、少年審判について研究していました。取材に興味があったことから新聞記者を志し、大手新聞社に就職。当時の希望は社会部で、大学での学びから社会的な問題を何とかしたいという想いを抱いていたのが志望理由でした。

全国紙を出している新聞社は、新入社員を地方支局に送り出すのが慣例です。私が配属されたのは、これまでに1度も訪れたことのない岩手県、盛岡支局。これが私の岩手県との縁のはじまりでした。

赴任先の盛岡は本当にのどかで、重大事件が起こることはほぼありませんでした。一次産業が盛んな土地柄で、身近な店で手軽に地元農家の方の野菜を買えることに、「地域によってはこういう暮らしもあるんだな」と新鮮な気持ちでしたね。「岩手って良いところだな」と思うようになりました。

私は「岩手ほど良いところはないし、地方の暮らしは豊かだな」と感じていたのですが、当時すでに一部の地域では人口減少がはじまっていて、岩手県からもどんどん都市に人が流出してしまっている状態だったんです。その様子を目の当たりにし、地域の課題にも関心を持つようになりました。

あとは、まちづくりへの興味ですね。レトロな建物を保存するのか解体するのかといった取材などへの興味も強まり、「これは社会部じゃないな」と。学芸部なら街並みの保存問題などについても取材できるかもしれないと思い、入社3年目から本社への異動にあたっては学芸部を希望するようになり、運よく入社5年目で東京本社の学芸部に配属され、岩手を離れました。

キャリア形成のために必要とされた2つの本社勤務を経験するべく、東京本社で3年間務めたあと、今度は大阪本社に異動しました。大阪で3年が経ったとき、東日本大震災が発生しました。

(Photo:CURBON)

痛感した「報道の力の限界」

盛岡支局時代に沿岸部を取材したことがありました。また、震災であわやの目に遭った後輩がいることも知り、より一層「他人事じゃない」という気持ちが強まりましたね。いてもたってもいられず、「現地に行かなければ」という想いが募りました。これは新聞記者としてのさがかもしれません。

私の背を押してくれたのは、阪神淡路大震災時にボランティアを経験し、のちに防災事業に取り組むNPO団体を立ち上げた方でした。その方は震災直後から関われたわけではなかったそうなのですが、「直後の光景を見たことが今の活動につながっている」と自身の経験を話してくれました。「大して役に立てなくても、震災直後のこのタイミングで行くことに意味があると思いますよ」という言葉を受け、翌月の4月に現地に向かったのです。

テレビ報道で見て、被災地の状況を想像してはいました。しかし、やはり自分の目で見るのは違いましたね。内陸から沿岸部に向かうにつれて、街並みが徐々に瓦礫に覆われていき、沿岸部は「色がなかった」。その光景が今も鮮明に記憶に残っています。

一度現地に行き、関わったことで、「復興を見届けないと」という気持ちが生まれました。そこから、大阪と岩手とを行き来する生活がはじまったのです。関西から参加したボランティア仲間とのコミュニティも生まれ、関西で情報交換会が開かれるようになりました。何度も足を運ぶうちに現地とのつながりができ、一大決心して続けたというよりは、自然と通うことになった感じだったと思います。

それでも、やっぱり仕事をしながら大阪と岩手とを頻繁に往復するのは大変でした。「せめて東京からなら、移動の負担を少しでも軽くできる」と思い、東京本社への異動を希望。その後、再び盛岡支局へ戻りました。ボランティアを続ける一方で、被災地への取材も仕事として行えるようになりました。しかし、その中で次第に「報道の限界」を痛感するようになっていったんです。

たとえば、震災翌年ごろから建設がはじまった災害公営住宅には、建築資材費や人件費の高騰から入札不調が起き、図面はできているのに工事が進まないという時期がありました。国や自治体の予算には限りがありますし、一方で業者としては赤字になる可能性がある案件に手を挙げるわけにはいかない。私が記者としてこうした問題を取材して記事を書いたところで、その問題が解決するわけではなく、国会や地方議会で問題を取り上げてもらうきっかけをつくれるくらいでした。今となるとそんなことはないと言えるのかもしれませんが、当時の私は「報道の力で復興課題を解決するのは無理だ」と思ったのです。

そうした想いが強まっていき、やりたいことをやらせてくれる恵まれた会社ではあったのですが、新聞社を退職。次の仕事として選んだのが、釜石市の復興支援員「釜援隊」でした。

復興支援の中でも、私が携わりたいと思っていたのは一次産業に関するものでした。震災前から岩手県の一次産業に可能性を感じており、特に漁村集落は津波により大きな被害を受けました。それでも、そこに住んでいた漁師たちは、同じ土地に住み続けられるよう、集落の復興に取り組んでいたのです。

ボランティアをはじめたばかりのころの私は、埼玉在住時代から住む土地に愛着を持っていたタイプではありませんでした。そのため、また津波が来るかもしれない土地に住み続ける感覚がいまひとつ理解できなかったのです。ただ、関わっていくうちに、漁師の方々は自分の親、祖父の代から海で生きてきた人たちで、たとえ被災したとしても、やはり海に戻る人たちなのだと腑に落ちました。若手漁師が集落の消防団を務めたり、郷土芸能を取り仕切ったり、地域自体が一次産業者によって支えられているんですよね。集落の再生を引っ張るのが一次産業者たち、漁村集落の場合は漁師の方たちなのだと実感しました。

記者として取材をする中で、各自治体が国の復興支援員制度を使って復興を進める動きがあることは知っていました。いろいろな活動がある中で、私はやっぱり岩手県の復興を見届けたかった。「岩手県」「一次産業の支援」のキーワードから活動を探す中で出会ったのが、釜援リージョナルコーディネーター(通称「釜援隊」)だったのです。

(提供:釜石リージョナルコーディネーター協議会)

林業従事者の育成を

当時、釜援隊が募集していたのは、一次産業といっても漁業ではなく林業で、津波で役員・職員や事務所を失った森林組合で、新しいプロジェクトを担うメンバーでした。森林組合の仕事は、山の間伐をして得られた木材を運び出し、販売することです。震災後、高台移転をすることになった地域が増えたこと、復興を進めるために道路を切り拓く必要があったことから事業量が増え、忙しい状態にありました。

組合のリーダーである高橋幸男さんは、人材育成事業を手掛けたいという想いを持っていました。漁師や水産加工企業など、漁業関連の事業所が被災したことで、仕事がなくなった若い世代の中には、内陸部への移住を余儀なくされた人もおり、人口減少が加速していました。しかし、海はすぐに仕事ができない状態であっても、山は残っています。山での仕事ができれば、地域に残れる人たちがいるのではないか。そうしたリ高橋さんの想いに共感し、私も人材育成事業に関わることになりました。

主なミッションは、林業スクールのカリキュラム作りと運営です。林業の復興支援といっても、直接伐採など林業の仕事に携わるわけではなく、林業以外の世界の人たちと組合、森林をつなぐコーディネーターとしての活動がメインでした。

釜援隊に入る前は、即戦力になれるのかが不安でしたね。これまでのキャリアの中で、特にマネジメント業務の経験があるわけでもなく、調整スキルを磨いてきたわけでもなかったものですから。ただ、実際に動きはじめてみると、無力感を抱く暇もなかったですね。そもそも待ったなしのスケジュールで、はじめて1ヵ月ほどで林業スクールをスタートさせなければならなかったんですよ。ホームページを作って受講生を募集し、開校式を開催するといった具合に、やるべきことが山積みでした。無力感を覚える余裕がなかったのかもしれません。何とか1ヵ月で進められたのは、釜石に来る直前の1年間、盛岡を拠点に岩手県内で頼れる人とのつながりを築けていたからだと思います。

外資系企業の支援を受けて林業スクールを実施するにあたっては、森林組合職員の協力が欠かせませんでした。森林組合のリーダーである高橋さんが求心力のある人だったので、多くの職員は「高橋さんがやるんだったら」と賛同してくださいましたが、もちろん最初から前向きではない方もいます。そうした方たちに、人材育成の必要性について芯の部分まで理解してもらうのが難しかったですね。言葉で説明するよりも、一緒に過ごす時間を増やして信頼してもらうしかないなと考え、移動中の車内で一対一で話をしたり、行事に参加したりしながら、少しずつ信頼してもらえるよう努めました。

このまま岩手を離れられない

釜援隊に入ったころは、そのまま岩手県で暮らし続けるとまでは決めていませんでした。着任した当時、復興支援員の任期は5年と定められていましたが、まずは復興が自分にとって大きなテーマだったため、5年後のことは何も見えておらず、動いていく中で見えてくるのかなと考えていましたね。その後、国が財源を確保し、希望すれば10年まで任期を延長できることになったんです。そのため、私は5年を過ぎたあとも釜援隊としての活動を続けました。

自分のその後を考えはじめたのは、任期最後の1年となる2020年です。その前年、2019年10月に開催されたラグビーワールドカップでは、試合会場のひとつが釜石市のスタジアムでした。「釜石鵜住居復興スタジアム(かまいし うのすまい ふっこう スタジアム)」と「復興」を冠しているこのスタジアムの建設計画がはじまったのが2016年ごろ。私たちにとって復興の節目となる大きな取り組みでした。スタジアムが完成し、試合が行われ、残された任期は1年。タイミング的にも、「そろそろ次のことを考えないとね」という時期が2020年に入ったころだったのです。

釜援隊の任期を終えたあとも岩手県に残ろうと決めたのは、何か明確に理由があってのことではありません。ひとつ言えるのは、コロナ禍です。ラグビーワールドカップにより釜石は被災地で唯一の開催地として注目を集めましたし、三陸鉄道も開通し、ここからより地域が盛り上がっていくだろうというのが、当初の目論見でした。ところが、「ここから」というタイミングでコロナ禍に突入。観光客は途絶え、地域は停滞してしまったのです。

さらに、復興工事も一段落したことで、それまで数千人単位で来ていた工事関係者もいなくなりました。10年かけて復興を進めてきた先に待っていたのがこの静けさなのかと思いましたね。私が震災直後に「見届けよう」と思った“復興”の後の景色はこういうものだったんだろうか……そう考えると、やりきれない感じがしました。その状態を目にしながら、任期が終わったからといって「じゃあ」といなくなるのは違うと感じました。そうして、自分の大きな方向性として「留まろう」という想いが固まっていったのです。

(Photo:CURBON)

ー おわりに ー

平らな土地が少ないことから、農業よりも漁業が盛んだという岩手県沿岸部の三陸地方。だからこそ、震災被害による影響は甚大でした。数年間働いたことがある縁から、そんな岩手県の復興支援に携わる道を選んだ手塚さんが、復興支援員のあとに歩みはじめた道とは。後編「偶然の繰り返しが今に」では、手塚さんの働き方「複業フリーランス」について伺います。

PROFILE

手塚さや香(てづかさやか)

埼玉県さいたま市出身。全国紙の新聞記者、釜援隊(復興支援員)を経て、2021年から複業フリーランス。釜石市を拠点に、取材ライター、キャリアコンサルタント(国家資格)のほか、(一社)いわて地域おこし協力隊ネットワークのマネジャーとしても活動。<岩手の仕事をもっと豊かに もっと多様に>をテーマに自身も複業を実践している。「岩手移住計画」代表。ライター、国家資格キャリアコンサルタント。

手塚さや香_岩手在住ライター(note):https://note.com/sayakatezuka
手塚さや香@岩手在住ライター/キャリアコンサルタント(X):https://x.com/tezukasayaka

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