宮城県石巻市で生まれ育ち、特産品である、ほやの魅力を国内外に広めるべく活動中の「ほやドル」萌江(もえ)さん。ほやをテーマにした楽曲「ほやのマーチ」や、インパクト抜群の「ほやヘアー」、耳に残る「ほや語」など、創造性の高い活動を広げられています。
ポップなほやドルとしての活動の一方で、「直球怨念型シンガーソングライター」というダークな一面も持つ、ユニークな存在なのです。自身も好きだという「ほや」との出会いや、音楽の道を志したきっかけ、そして創作活動への想いについて伺いました。
目次
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01
失恋の悲しみをバネにして憧れのシンガーソングライターに
- 01-01 失恋とコブクロが音楽への道を作った
- 01-02 地元への複雑な感情
- 01-03 元カレへの想いが怨念ソングに
- 01-04 ご当地ソングを自作していた日々
- 01-05 ほやの廃棄を聞き、生まれた「ほやのマーチ」
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02
ほや愛から生まれた独自のスタイル
- 02-01 おやつにも食べていた「ほや」
- 02-02 試行錯誤から生まれたキャラクター
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03
夢が叶っても走り続けられる理由
- 03-01 ニュージーランドで確認した、ほやの可能性
- 03-02 夢が叶った日
- 03-03 原動力の変化
失恋の悲しみをバネにして
憧れのシンガーソングライターに
失恋とコブクロが音楽への道を作った
私がシンガーソングライターを目指したのは、中学1年生の頃。当時の彼氏に浮気され、大失恋したことがきっかけです。悲しみに暮れていたとき、出会ったコブクロの歌に心を救われたのです。当時は、純粋に歌手を目指すというよりも、「コブクロに会いたい!」という気持ちが勝っていたのだと思います。
「同じ職業に就けば、いつか会えるチャンスがあるかも」なんて、いま振り返れば中学生らしい発想ですよね。それでも、ギターをはじめ、作曲するようにもなりました。こうしてはじまった私の音楽活動は、高校生になってからも生活の一部として続いていきました。

地元への複雑な感情
その音楽が大きな支えとなったのは、高校1年生の時に見舞われた東日本大震災でのことです。避難所ではiPodでコブクロの曲を聴いて過ごし、なかでも最初に出会った大好きな「桜」には、毎日励まされていました。桜は、冬が来て寒さに耐える時期があっても、春になればまた花を咲かせます。「今はつらいけれど、きっとまた明るく楽しい未来が待っている」と思わせてくれる曲だったのです。
しかし、震災以降、思い描いていた青春とはほど遠い高校生活を送ることになりました。校舎の横にはがれきの集積場がつくられ、衛生面や環境の厳しさから窓を開けることすら満足にできない日々。修学旅行も中止になり、制限だらけの環境で高校生活を送るしかないのが、本当につらかったです。「震災のせいで」という気持ちが募り、いつしか地元の厳しい現実に目を背けたくなって「高校を卒業したら宮城県を出たい」と思っていたほどでした。
それでも宮城県に残ることを選んだのは、家族への想いと、当時の彼氏の存在があったからです。遠距離恋愛になるのが嫌で、地元の大学への進学を決めました。この頃も歌手を目指してはいましたが、彼氏の優先順位が高かったので、そこまで本気で夢を追いかけてはいなかったように思います。彼氏にも「歌手は無理だ」と言われていましたね。彼と結婚して、音楽はその傍らにあればいいなというくらいの感覚でした。
元カレへの想いが怨念ソングに
しかし、その彼に、大学2年生の冬に振られてしまったのです。この失恋を機に、「彼氏が無理だと言ったことを成し遂げてやる!」と一念発起し、歌手を目指すことにしました。
そうして生まれたのが「怨念ソング」です。当時の私は復縁したくて連絡を送り続けていましたが、関係が好転することはありませんでした。彼に吐き出せなかった想いを紙に書き殴り、その言葉たちに曲をつけたものが怨念ソングになっていたのです。ストレートな感情を歌詞にするスタイルに振り切ると決めて名乗ったのが「直球怨念型シンガーソングライター」でした。
あまりにもストレートな歌詞なので、はじめは「聴いた人を傷つけてしまうかも」という不安もありました。しかし、ある日のライブ後、聴いてくれた方が泣きながら話しかけてきてくれたのです。「どこにも言えない想いを代弁してもらえたようで、すっきりしました」と。ストレートな歌は、誰にも言えない負の感情の受け皿になることができて、逆に誰かを救うことができるんだと気付かされました。

ご当地ソングを自作していた日々
怨念ソングで自分の感情を吐き出す一方で、、大学の3年間は地元のお祭りなどに呼んでいただいて歌う機会が何度かありました。そこで披露していたのが、お祭りの内容や土地柄に合わせて自作した「ご当地ソング」です。
昔から私は、学校でのコントや、クリスマス会の企画、恋人への記念日サプライズなど、「どうすれば人に喜んでもらえるか」を考えるのが大好きでした。お祭りでもその想いは同じで「失恋ソングよりも『石巻焼きそばの歌』を歌った方が、地元のみんなが笑顔になる」と考えたのです。だからこそ「やきそば店の出店がある」と聞けば、「やきそばの歌を作ろう」と、実際に自作の曲を披露して場を盛り上げたこともあります。地元の方々には喜んでいただけてはいたものの、大きな反響にはつながっていませんでした。
ほやの廃棄を聞き、生まれた「ほやのマーチ」
ご当地ソングをつくりながら過ごしていた大学4年生の頃、ほやが大量廃棄されているという衝撃的なニュースを目にします。震災の被害を乗り越え、ようやくほやの出荷を再開できると思った矢先、原発事故の影響から韓国が輸入停止措置を取ったのです。実は宮城県産のほやは7〜8割が韓国への輸出品だったため、この措置は大きな打撃でした。ほやは種をつけてから育つまでに3年かかります。漁師さんたちが復興を信じて大切に育て続けたほやが何万トンも廃棄されているという現実を知り、「地元の好きな食材が、こんなことになっているの?」とショックを受けました。
当時、シンガーソングライターとして活動をはじめていた私は、自分にできるPR活動を考え抜きました。その結果として大学卒業の間際に生まれたのが「ほやのマーチ」という楽曲です。この曲をいろいろな場所で歌うことで、少しでもほやを知ってもらえたり、食べるきっかけになったりすればいいな、という一心でした。
ネット上では賛否両論ではありましたが、これまでないほどの大きな反響を呼びました。「なぜこんな変な歌を?」という声もありましたが、自分がやりたくてやったことなので、不思議と気になりませんでした。むしろ「ここまでいろいろな反響をもらえるんだ!」という驚きが勝っていましたね。そうして私は「卒業したら、ほやドルに就職する」と決め、大学卒業とともに、ほやドルを名乗りはじめました。

ほや愛から生まれた独自のスタイル
おやつにも食べていた「ほや」
ほやドルを名乗って活動しはじめたことで、「いつから、ほやが好きなんですか?」と聞かれることが増えました。ですが、正直なところ「好き」というより「当たり前」だったのです。母の出身は宮城県石巻市の中でも、特にほやの養殖が盛んな牡鹿半島の谷川浜。母が根っからのほや好きで、私以上に大好きなんですよ。だから、おかずにもおやつにも出てくる環境で育ったため、人生において最も身近な食材でした。いわば、母による「ほや英才教育」ですね(笑)。
ほやドルとして活動していると、メディアの仕事や友人との集まりなど、ほやを食べる機会がとても多く、週3、4回は食べています。「こんなに食べて嫌いにならないの?」と、よく聞かれるのですが、まったくなくて。心から「ありがたい」と思いながら食べられるからこそ、この活動を続けてこられるのだと思いますし、きっと一生変わらないのだろうなと感じています。

試行錯誤から生まれたキャラクター
今のキャッチーな髪型や服装は、計算してつくったわけではありません。ひとつずつ「これをやったらおもしろいかな」と試すなかで作り上げられていったものばかりです。
「『ほや』と書かれたTシャツを着たらおもしろいかな」とか、「髪をお団子にして、ほやに見立てよう」とか。ちなみに、ほやヘアはもともと地毛を結んでつくっていました。ですが、私がシンガーソングライターになるきっかけとなった元カレが結婚すると聞いて、想いを断ち切るために断髪式をしたのです。髪が短くなったので、以来、髪飾りでつくるほやヘアが定番スタイルになりました。
挨拶の「ほやっほー」や、幸せを表す「ほやわせ」といった「ほや語」も、正直いつ生まれたのか記憶にないほど自然にできたものです。狙って言ったというより、活動するなかで自然と口にしていた言葉が、徐々にほや語として育っていきました。振り返ってみると、楽しんでもらえることを考えたり、企画をしたりすることが性格的に好きなのだと思います。
夢が叶っても走り続けられる理由
ニュージーランドで確認した、ほやの可能性
私の活動のモットーは、「全国・全世界にほやを広める」こと。その大きな一歩となったのが、2024年に出演した「Japan Fiesta EX」です。ニュージーランドで開催される日本文化フェスティバルで、この年のテーマは東北でした。現地に住んでいる宮城県出身者の方が私を知ってくれていて、「PRポスターがあったら送ってくれませんか」と連絡をくれたのです。
「せっかくなら現地で出演したい!」と思い、尋ねてみたところ「予算の都合上、自費で渡航費をまかなっていただけるならいいですよ」とお返事が。「自分で資金を集めて行きます!」と返事をし、すぐにクラウドファンディングを立ち上げました。ありがたいことに目標金額の148%を達成するほど多くのご支援をいただき、無事にニュージーランドへの渡航が実現したのです。無事に渡航できただけでなく、ネクストゴールにしていた、ほやの炊き込みご飯おにぎりを現地で振る舞うこともできました。
実はニュージーランドには、ほやを食べる文化がなく、存在すら知らない人ばかりでした。日本では好き嫌いが半分くらいにわかれる食材ですが、ニュージーランドでは8割の方が「好き」と答えてくれたのです。現地で親しまれているムール貝と味わいが似ていたことも受け入れられた理由のようでした。ステージでは「ほやのマーチ」の英語版を披露。英語版といっても、サビは「ほや」と連呼する日本版と同じなのですが(笑)。会場のみんなが笑顔で「ほやっほー!」と応えてくれて、日本以上に盛り上がったのではないかと思うほどの熱気でした。まだ他の国には行けたことがありませんが、いろいろな国で活動していきたいと思っています。

夢が叶った日
こうして活動も徐々に広がっていき、念願だった「コブクロのおふたりに会いたい」という夢も叶ったんです。ラジオの仕事の関係で、コブクロの宮城ライブの関係者席に招待していただけたのです。楽屋へご挨拶に伺い、「コブクロに憧れて、シンガーソングライターになりました」と直接お伝えすると、おふたりからは、「僕らに憧れて、なぜほやドルに行き着いたの?」と笑いながら不思議がられましたが(笑)。
ただ、そんなコブクロのおふたりも、彼らが憧れているアーティストとはまた違う、自分たちだけの独自のジャンルを確立して活躍されています。憧れの人と同じ道を歩むだけでは、その人たちのいる場所には辿り着けないのかもしれません。結果論ですが、「ほやドル」という誰とも被らない活動を続けていたからこそ、おふたりに会うことができたのかもしれません。
原動力の変化
シンガーソングライターとしての最初の原動力は、「元彼を見返したい」「コブクロに会いたい」という個人的な気持ちでした。ですが、活動を続けるうちに、「人の想いに応えたい」という気持ちが強まっていきました。今ではすっかり逆転し、応援してくれる人たちこそが私の原動力になっています。
もちろん、「なぜ、ほやなの?」「ほやなんて、若い子は食べないでしょう」など、賛否の「否」を受けることもありました。それでも折れなかったのは、誰かに言われたことではなく、自分がやりたくてやっているから。良くも悪くも突っ走れるタイプなので、自分が好きなほやで活動しようと決めた以上、ぶれることがないのです。
夢が叶うと、熱が冷めてしまう人もいるかもしれません。最初の原動力がなくなったあとも走り続けられている理由は、私のために熱狂的になってくれている人たちがいるからです。言葉で表現するのが苦手で、感情のまま動いてしまう私は、主催する「ほやっほー祭」の準備に追われてバタバタする姿さえ、ありのまま届けているんです。そんな私を応援してくれたり、「手伝うことはある?」と声をかけてくれる人たちがいてくれることが、本当にうれしいんです。がんばる姿を推してくれているみんなのために、これからも全力で活動を続けたいと強く思っています。

ー おわりに ー
「ほやのマーチ」はもちろん、「怨念ソング」もポップでキャッチーなメロディーが特徴です。「怨念を扱うから、あえて意識してポップさにこだわっているのでは?」と思いきや、萌江さんのこだわりはむしろメロディーより歌詞にあるのだそう。「ポップにわかりやすく、とは思っていますが、あくまでも歌詞が先で、メロディーに当てはめているだけなんです」と話してくれました。「実体験、自分の想いでなければ、感情を乗せて歌える歌にならない」という萌江さんの歌、ぜひYouTubeなどで聴いてみてください。次回「タイトル」では、萌江さんが主催されている「ほやっほー祭」について伺います。





